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大泉寺(だいせんじ)は、山梨県甲府市古府中町にある寺院。曹洞宗寺院で、山号は万年山。本尊は釈迦如来。 甲府駅より北川の周囲を山に囲まれた相川扇状地の開口部に広がる市北部のうち、東側に突出した愛宕山から北へ続く大笠山西麓部に位置する。甲府の南北基幹街路のひとつである大泉寺小路に沿い、西には濁川支流の藤川が流れる。 == 沿革 == 戦国期に甲斐国守護の武田信虎は家督相続後に国内統一を進め、1519年(永正16年)には本拠を石和から甲府へ移転する。甲府は居館の躑躅ヶ崎館を中心とした城下町整備が進められ、それに伴い諸寺院も移転される。 大泉寺は大永年間に巨摩郡島上条〔現在の甲斐市島上条に位置する〕に創建され、後に甲府へ移転される。『甲斐国志』に拠れば、もとは密教寺院の大川寺であったが、1521年(大永元年)に信虎は嫡男(武田信玄)誕生の際に霊夢を見て改宗・改称させたとする信玄誕生説話がある。 信虎期から晴信期にかけて中山光厳院や信濃国岩村田の龍雲寺とともに甲斐国領国内の曹洞宗寺院を統括する僧録所となる。 『広厳大通禅師譫語集』によれば二世住職の吸江英心(きゅうこうえいしん)は武田信縄の次男で、現在の甲斐市竜王町に所在する慈照寺の真翁宗見に師事する〔柴辻(2015)、p.280〕。吸江英心は永正16年(1519年)に武田信虎の甲府開創に際して、天桂禅長を招き大泉寺を創建する〔柴辻(2015)、p.280〕。 天桂禅長は加賀国能美郡出身で、甲斐国における最大門派となった雲岫派の法系。永正14年(1517年)に甲斐国へ入ると吸江英心と同じく慈照寺の真翁宗見の弟子となる〔柴辻(2015)、p.508〕。天桂禅長は大永4年(1524年)に死去し、吸江英心が跡を継ぐと二世住職となる〔柴辻(2015)、p.280〕〔柴辻(2015)、p.508〕。 父信虎を追放して国主となった晴信時代にも保護を受け、寺領の寄進を受けている。1564年(永禄7年)3月の火災では堂宇が焼失し、再建されている〔『国志』〕。武田信玄の長女(黄梅院)は相模国北条氏政の室として嫁いだが、甲斐国との同盟関係悪化のため甲斐へ送還され、1568年(永禄12年)に死去した。黄梅院には巨摩郡南古郷〔現在の南アルプス市に位置する〕の地が知行として与えられており、1572年(元亀3年)には巨摩郡竜地〔現在の甲斐市に位置する〕に菩提寺である黄梅院が建立されており、大泉寺の子院となっている。 1574年(天正2年)には武田信虎が流寓していた信濃国高遠で死去し、同国岩村田(長野県佐久市)の竜雲寺から大禅師北高全祝が招かれて信虎の葬儀を執り行っている。葬儀に際しては、信虎3男の武田信廉(信綱、逍遙軒)の描いた武田信虎画像が奉納されている。武田勝頼時代にも寺領安堵を受け禁制を下されている。1578年(天正6年)には曹洞宗法度を制定しており、竜雲寺とともに信玄時代に信濃へと拡大した武田氏領国内の曹洞宗寺院を統括していた。 武田氏滅亡後も徳川氏から豊富系大名には寺領を安堵され国内曹洞宗寺院の管轄も続いたが、江戸時代には寺領は削減された。甲府藩主柳沢吉里の大和郡山転封の際に岩窪(甲府市岩窪町)の永慶寺から仏殿が移築されているが、後に焼失している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大泉寺 (甲府市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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